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幸福論

「幸せのお裾分け」を貰え

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年の瀬という時期柄、最近は特に寒い。無援孤立な俺にとっては、寒さが自分の孤独感に追い打ちをかけるかの如く、精神バイオレーションも低下しがちである。そのような状況を少しでも改善するには、果たしてどうしたらよいか。個人的には、他者から「幸せのお裾分け」を貰えれば少しは安定すると考える。一体どういう事か。

他人の幸せは、俺のもの

字面だけ見れば過激で、どこぞのガキ大将が言いそうな台詞である。要諦は、「他人が幸せそうにしている姿・場面等を見て、自分もそれにあやかり幸福感を味わう」という事である。

例えば、家族連れが買い物をしている所に居合わせたとする。カートには正月飾りやおせちの材料等、山盛りである。子供たちは冬休みの開放感も手伝ってか、楽しそうに親と話している。伴い、親もとても嬉しそうに応える。その内実は不明だが、傍から見る限りでは、いかにも絵に描いたような幸せと言えそうだ。そういう時に、「楽しそうにしやがって」とか「羨まし過ぎて辛い」とか「俺の様な独り身の事も考え、自粛しろ」等と負の感情を抱く向きもあるかも知れない。そうではなく、意識して能動的に自分も幸せを味わうのだ。その結果、精神の安定にも寄与する。

手法としては、感情移入するなり、脳内でその家族の輪に勝手に参加して話す姿を想像するなり、何なら単に他人の笑顔を見たという漠然とした事だけでもいい、いろいろ試して幸せを感じられるものを採用すればいい。かくして、安上がりかつ手っ取り早く幸せになれる可能性を創造できるのだ。

俺は日々大体デスクトップに張り付いてツイッター等を閲覧しており、他者の幸せ、例えば誰が結婚したとか、優勝したとか、何かを手に入れた等のニュースや話題を目にする機会が多い。その度に画面越しに独りで喜び、心の中で「おめでとう」とか「良かったな」と呟き、幸せを譲り受けている。

気付けば、体化する

開始してからしばらくは、意識して幸せのお裾分けを貰おうとするだろう。これはどういう事かというと、車の運転等に例えれば理解し易いか。一つ一つの操作や手順を頭で考えながら、時にはあやふやになりながらこなす、という段階だ。だが、ある程度回数をこなし時間が経つと、いつしかそれが自然と無意識に定着するようになる。右左折時に意識せずとも適切なハンドルの切り具合やタイミングを調整出来る、同乗者と会話しながらでもスムーズに運転出来る、等である。つまり、体化するという事だ。

そうなればしめたもので、後は余程の大事、例えば脳障害に陥るとかトラウマになりそうな経験をする等、が無ければ、半永久的に「他者の幸せ=自分のそれ」という精神構造を維持出来るだろう。大体の人間が、一度習得した言語を一生涯運用出来ることを踏まえれば合点がいくだろう。となると、換言すれば、その分だけ自らが幸せになれる確率も高まると言える。会得出来れば、その費用対効果は計り知れない。

幸せは心掛け次第

実を言えば、過去には俺も多分に漏れず他人の幸せそうな姿を見ては勝手に卑屈になり、勝手に怒り、勝手に摩耗し、勝手に憔悴していた時期があった。だが、人生が進むにつれいろいろ経験して自分なりに考えたり本を読んだりした結果、上記のメソッドに行き着いた。試験的に始めた当初は、自尊心や虚栄心等が強かったのだろう、都度ストレスを感じていた。しかし、そういったものを吹き飛ばすべくバカになるかの如く継続した結果、今では顔も心も仏の様な満面の笑みで満たせるようになった。

思うに、幸せとは青い鳥とか白馬の王子様等の何かが勝手に運んで来るような性質のものではない。玉の輿に乗れたり、遺産が手に入る等して意図せず幸せになれる場合もあるにはあるが、基本的には自ら率先して掴みに行く必要があるだろう。そう考えた時、今現在自分が幸せを感じづらいとしたら、それぞれ事情が異なるので一概には言い切れないが、マインドを変える必要性があると思う。これまで看過、ともすれば怨念の元凶であったかも知れない他者の幸せを、心掛け次第で自分の幸せに転換出来るのなら、それは素敵で素晴らしい事ではなかろうか。

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